オンリーワンになる。

VOL.259 / 260

赤星 大二郎 AKAHOSHI Daijiro

1972年2月10日、東京都出身。
大学卒業後、カナダB.C.州に渡る。その後、同州最大のリゾート地ウィスラー・ブラッコムにて3年間スキーインストラクター兼ガイドとして働く。帰国した1997年にジャオスに入社し、北米市場でのSUVブームを受けて国内アフターパーツメーカーとしては先駆けとなった、同社の世界最大規模の自動車用品トレードショー「SEMAショー」出展時の中心的役割を果たすなど、海外事業部の拡大を務めた。2003年に専務取締役に、2008年から代表取締役に就任。

今年、4WD・SUV向けアフターパーツメーカーとして創立35周年を迎えた株式会社ジャオス
2008年から代表取締役となった赤星大二郎さんはナンバーワンではなく、オンリーワンを目指す
その考えや代表取締役としての手腕は自らの人生経験を糧にしたものだった

オンリーワンになる。---[その1]

スキー好きからカナダへ

 現会長である父が株式会社ジャオスを設立したのが35年前。現在、私は48歳なので、当時13歳の時ですね。会社設立前から父は車の用品関係の仕事をしていて、さらにはランドクルーザーやパジェロもプライベート向けに台頭し始めた時期だったので、そうした車に乗ってよくキャンプへ行ったのを覚えています。私自身は小学生から高校生までボーイスカウトに所属していて、当時は都内に住んでいたので丹沢だったり、関東近郊の山々へ行っていました。最終的には高校時代にオーストラリアで開催された世界ジャンボリーへ日本代表として参加しました。ですから家族とのキャンプも大好きで、そんな日常の中にランドクルーザーがあるという家庭環境でした。
 ただ、そうしたオフロード車が身近にはありましたが、興味は薄かったかもしれないですね。私は次男ですので、父の会社を継ぐ云々は、継ぐことになるぎりぎりまで考えていませんでした。実は大学の時に始めたスキーに夢中になり、ワーキングホリデーという仕組みを使って大学卒業後はカナダに渡ったんです。事前にスキー場が近くにある学校を調べ、週末はボランティアスタッフとしてスキー場に通い、そこでスキーインストラクターのライセンスを取得しました。そんな経験を経ていつしかカナダに住みたいと思うようになり、就労ビザを取得したいと考えました。当時は1990年後半で日本からもウィスラーやバンフなどの有名スキーリゾートに滑りに行かれる観光客が多かった時代です。地方での就労ビザ取得はカナディアンの就労の機会を奪ってしまうので厳しいと知り、そうした有名リゾート地であればチャンスがあるのではとウィスラーのスキー場に履歴書を持って行くとすぐに雇ってくれて、2シーズンほど過ごしました。結局、大学を卒業して丸3年カナダに住んでおりました。

        カナダ時代の赤星氏(写真一番左)

父の仕事の影響もあり、幼い頃から4駆の車やオフロードフィールドが身近にある環境で育った。

ジャオス入社の転機

 転機となったのは、カナダ3シーズン目の冬が始まる前の1996年の秋。ジャオスがアメリカのラスベガスで毎年11月に開催されている世界最大級の自動車用品トレードショー「SEMAショー」に出展することになり、カナダにいる私に手伝ってほしいと相談をもらいました。当時は英語ができる人が社内に少なかったので、出展前の手続きから開催期間中は現地のコーディネーターとして手伝いました。それをきっかけに、継続してSEMAショーに出るために会社を手伝ってほしいと正式なオファーを受けて、1997年の春から海外事業部として私は入社することになりました。そこが今に至る私のスタート地点です。
 当初の仕事は、SEMAショーに来場するアメリカ人はもちろん、中東やロシアから来る関係者とコミュニケーションを作りながら、興味を持ってもらったところと交渉を進める役でした。約5年くらいは北米を軸に中東、ロシア、そしてアジアなどの市場を回っていました。
 入社してからの転機は、2000年に東京の本社と生産設備がある群馬県の工場を統合したことです。その背景には、1999年から2003年にかけて段階的に施行されていったディーゼル規制が大きかったです。我々がターゲットにしていたランドクルーザーやパジェロなどの多くがディーゼル車で、それらが首都圏を走れなくなったのは大打撃でした。おりしも日産のトップに就任したゴーン氏が「日産リバイバルプラン」を掲げ大規模リストラを推し進めた時期でしたので、規模は違えど同様の危機感を持つ我々にも何かできることはないかということで、東京と群馬の拠点を1ヶ所に統合することになったんです。東京を離れ会社を統合しスリム化したのは大きな決断でしたが、間違ってはいませんでした。むしろ会社自体が小さくまとまりコミュニケーションが良くなったり、開発スピードが速くなったり、当時からカスタマイズに力を入れていて今でも懇意にさせて頂いている群馬トヨタさんとのお付き合いが深まったりと、悪いことばかりではなかったんです。

思わぬ縁で海外ラリー参戦

 アメリカ市場に関しては、2001年の9月11日に同時多発テロが起きたあたりから消費動向が変わった感があります。またこれまでトヨタのランドクルーザーやハイラックスサーフ、三菱のパジェロといった日本生産の車両が多かったのですが、セコイヤやタンドラなどアメリカ生産の車両に自動車メーカーもシフトしていったタイミングで、ジャオスとしてはもう一度国内市場を見直す方向に舵を取ったんです。同時期にトヨタ車向けのカスタマイズプロジェクトというのも立ち上がり、私はその担当に就きました。2002年から始まったのですが、タイミングがすごく良くて、トヨタから新しいランドクルーザープラドとハイラックスサーフで一緒にカスタマイズの事業を盛り上げようというお話をいただけて、東京オートサロンなどの大きな舞台で発表をしていくことができました。
 2004年から3年間は、アジアクロスカントリーラリーにも参戦しました。きっかけはランドクルーザープラドで同ラリーへ参戦したいというドライバーを紹介され、それに向けての参戦車両づくりを2003年からお手伝いしたことでした。また、一緒に作業をしていくうちに「赤星さんは英語ができるから一緒にラリー参戦してくれないか」と相談を受けました。ジャオスでというより、私の個人的なプロジェクト。夏休みを利用したので仕事に迷惑をかけることなく、自社製品を試すチャンスでもあったので、私はナビゲーションを担当するコ・ドライバーとして参戦したんです。
 もちろん国内でも練習を重ねました。ただWRCなどと違ってアジアクロスカントリーラリーはコースの下見ができず、前日に与えられたルートブックを読み込んで、当日ドライバーに指示を与えることしかできません。ルートブックと視界からの情報を取り込む中で何より良かったのは、私が車に酔わない体質だったことです(笑)。

    群馬県にある現社屋と、かつて都内にあった旧社屋。

良い悪いを含めて、ジャオスの転機となったのはリーマンショック、創立30周年、コロナ禍、
厳しい時もあったが、今年35周年を迎えられたのは赤星大二郎さんが常に「ジャオスらしさ」を大切に
オンリーワンとなることを目指してきたからだ

オンリーワンになる。---[その2]

 会社と私自身の大きな転機になったのは、2008年のリーマンショックでした。創業者である父を含め社内で今後の会社の方針を話す中、バトンタッチして新体制で進めた方がいいのではないかという結論に達し、同年に私が代表に就任しました。
 リーマンショックは今のコロナ禍よりも打撃が大きく、良い関係を築けていた自動車メーカー向けへの納入が一時滞ったり、海外マーケットについても動きが止まり、非常につらい状況でした。そこを乗り越えられたのは大きかったですね。
 今のコロナ禍も見通しが難しく大変ですが、働き方を変える良いきっかけと捉え、前向きに取り組んでおります。緊急事態宣言期間中については、従業員の健康を守るために分散出勤体制を構築しました。組織をに2班に分け、万一感染者が出た際には片方の班が事業を存続できるためのリスクヘッジです。幸いにして一部の海外向けのプロジェクトがストップしている以外は、おかげさまで事業的にはそれほど大きな影響が出ておりません。緊急事態宣言発令以降、自宅で過ごす時間ができて改めて愛車と向き合いカスタマイズしようと思われたユーザーも少なくなかった印象です。我々が手がける商品はSUV向けカスタマイズというニッチなマーケットですので、必ずしも新車販売と同じような動きにはなりません。ただし、カスタマイズを検討される際に真っ先に選んでいただけるというベースがなければいけませんが、弊社の足回りやホイールなどを選んでくれる方は幸いにも多くいらっしゃって、ありがたかったですね。時期的にもスタッドレスから夏タイヤに交換するタイミングでもあったのが救いでした。イベントなどは2月以降ほとんど中止になっていましたので、そのぶんユーザー様とコミュニケーションと取るべくウェブサイトやSNSをいつもより丁寧に発信してきました。

クラス優勝を果たした昨年のアジアクロスカントリーラリー。
ポディウムでは、クルーを支えたチーム員全員で喜びを噛み締めた。

自社チームでラリーに復帰

 私が代表になってからは、どちらかと言うと社内を研ぎ澄ませていった印象が強いかもしれません。ニッチなマーケットの中でナンバーワンではなくマーケット全体を広げオンリーワンになろうと考えていました。SUVユーザーに対して、カスタマイズの第一歩としてジャオスがあるんだよ、と。ロングセラー商品であるマッドガードあたりのパーツからカスタマイズの楽しさを味わってもらい、かつ憧れを抱いてもらえるようなブランドになることを以前も、そして今後も変わらない取組みとしています。
 リーマンショック後の転機は、2015年の創立30周年にありました。2004年からの3年間、アジアクロスカントリーラリーに参戦していた経緯もあり、もう一度同ラリーに自社チームでの参戦を決意したんです。ジャオス社内スタッフを中心にチームを編成して、自社製パーツの堅牢性も立証しようというプロジェクトです。初年度はプロドライバーを招いて、コ・ドライバーは私。そうしてほぼ10年ぶりに復帰してみると、ラリー関係者や主催者はジャオスそして私自身のことを覚えていてくれました。「よく戻って来てくれたね」と温かく迎えていただけたのもあり、日本を含むアジア圏のブランディングを高める意味で、このプロジェクトを継続する目的を見出しました。実際にそれが現在のタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアといった国々でのブランディングにつながっています。またラリーへの参戦は結果にもこだわりつつ、最も大切にしたのはプロセスであり、チームワークを含めたコミュニケーションでした。不慣れな環境の中でどうパフォーマンスを発揮するか? 10日間ほどのラリーですが、携わったスタッフは非常に濃密な時間を過ごします。そうした経験が組織づくりにおいても機能して、会社としての一体感がより強化されたと感じています。もちろん自社だけではなく、エンケイさんをはじめ、スポンサー企業様にも共感そしてご支援いただけたおかげで、毎年継続してこのチームジャオスの活動を続けてこられました。

トヨタハイラックスをベースにした今年の参戦車両のカラーリングイメージ(CG)。12月のアジアクロスカントリーラリーでその疾走シーンは見られるのか?

新しい可能性

 昨年、アジアクロスカントリーラリーへの参戦5年目にしてクラス優勝というタイトルを獲れたことからも、今年は更なる成長そして販路の開拓などトータルに考えて、アジア圏以外へも視野を広げて計画を立てていました。しかしコロナ禍の影響で、現段階では海外渡航すら見通しが難しい中で、例年8月に開催されていた同ラリーが12月に延期されるというアナウンスがあり、現状はそちらへ向けて連覇を目標に参戦計画を立て始めたところです。
 コロナ禍で右往左往するマイナス面がある一方で、プラスというか新しい発見もありました。これまで馴染みのなかったリモート会議が当たり前となり、東京や大阪と群馬などロケーションに関係なく打ち合わせができるようになったのは大きな収穫と言えます。それは海外に対しても同じで、国境を越えて会議ができてしまいます。ひとつの可能性が見えた気がします。同じ場所で同じ空気を吸えず、膝を突き合わせて話をすることができない面をどう丁寧に補っていくか? それが今後の課題ですが、これまでと同じようにジャオスらしく、解決策を見出していきたいと思っています。

赤星さんの運命を変えたとも言えるSEMAショー。写真は2000年当時。隣は現在も共に会社のかじ取りを担う田村専務。
BFGoodrichブース前に設けられたパネルに装着されたホイールはJAOS EXCEL2(ENKEI製)。

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